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未来メモリー

未来の自分に誇るメモリー

全ての子供の自尊心を傷つけずにハンディキャップを導入するのは難しい


スポーツ嫌いの子供を失くすためにするべきたったひとつのこと - orangestarの雑記

人間だって個体差のある生き物なのだから、人によって得意不得意があって当たり前。努力では埋められない先天的な能力の差は必ずある。

絵が下手でも音痴でもそれがいじめに直結することはあまりないのに、スポーツが出来ないことがとかくいじめにつながりやすいことはなぜなのか。

やはり「スポーツが出来ない」→「トロい」→「邪魔者」という図式に安易につながってしまうからだろうか。

それにしても、子供の頃にスポーツの出来ないことがコンプレックスだった人の怨念は凄まじい。大人になっても忘れられないトラウマが存在するということは、スポーツが出来ないというだけで、大変に理不尽で辛い思いをしたのだろう。これから大人になる子供たちがそういう怨念を持つ機会がないように、私たちは色々な理不尽を解消していかなければならない。

 

冒頭の記事では学校のスポーツの場でハンディキャップを持たせることを提案している。その有用性はわかるが、学校でそれを行うことは容易ではないと思う。例として挙げられているパラリンピックのように、見た目や運動機能に明らかな違いがある場合ならわかりやすいが、健常な子供同士の運動能力、例えば50m走のタイムやソフトボール投げの記録などに応じてハンデをつけたとして、ハンデをつけられた子供は本当に納得してゲームを「楽しめる」のだろうか。

自分の子供の頃を思い出すに、子供はいい意味で自分の能力に根拠なき期待を持っている。幼い頃から「あなたの能力はこんなもん」と提示されることと、松岡修造のような人に「頑張れ!信じればできる!」と励まされることと、前者のやり方で伸びる子もいれば後者のやり方で伸びる子もいるだろう。それはまさに子によって違って、その子の特性に応じて柔軟に対応しなければならない。大人が子供の努力をする機会や気力を奪うことは、努力をする必要がない子供に努力を強要するのと本質的に同じだと思う。


意味ある努力と無意味な努力が予めわかれば、人生はもっと楽なのに - 未来メモリー

 

大事なのは、子供の教育の場で、子供それぞれが、みんな違うとみんなが理解すること。

劣っていることを馬鹿にしないこと。

劣っていることで卑屈にならないこと。

優れていことを妬まないこと。

優れていることを自ら誇ること。

それさえできれば、スポーツの出来不出来を発端とするいじめも減るだろう。

そしてそれを根気強く子供に説くのはやはり家庭の役目のような気がする。