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未来メモリー

未来の自分に誇るメモリー

意味ある努力と無意味な努力が予めわかれば、人生はもっと楽なのに


コミュニケーションのプロトコルを「茶番」って呼ぶのは、身に付けてからにしましょうね - シロクマの屑籠

他人とコミュニケーションを取ることは幼い頃から嫌いじゃないし、それが自分の強みであるという自覚のある私は、この記事を納得しながら読んだ。自分の二人の子供たちにも、最低限の適切なコミュニケーションが取れるようにかなり意識して色々話しているつもり。

 

シロクマ先生はこの記事でコミュニケーション能力の大切さを説いた。この呼び掛けを契機に殻を破って努力してコミュニケーション能力を向上させる人がいたのならそれはとても美しい。

でも、コミュニケーション能力って、個人差によって、努力で高められる上限があるんじゃないかと最近私は考えている。プロ野球選手になりたくて一生懸命に野球を練習したとしても、運と才能がなければプロ野球選手にはなれないように。

 

ところで私は今の時代しか生きていないから昔のことはわからないけど、少し上の世代を見て想像するに、今と違って昔は努力したことが無駄になることはあまりなく、とりあえず既定路線通りの努力をしておけば、ステレオタイプの幸せを得られる可能性が高かったように思う。体育会系の部活動、受験勉強、大企業への就職などなど。そのあたりのことはこの記事に書いたことに通じる。

元体育会系の私が、体育会系の役割は終わったと思う理由 - 未来メモリー

でも今は、従来なら通用した既定路線の努力をしたのに、 実を結ばないケースが増えているのではないか。それは社会が成熟して成長が緩やかになっていることとおそらくリンクする。

 

コミュニケーション能力も、あるに越したことはないが、身に付けたからといってそれがその人の幸せに直結するのかと考えると疑わしい。もとよりコミュニケーションが得意な人は更に磨いて自分の強みにすればよいが、苦手な人、どんなに努力して磨こうと思っても頭打ちの人に、無理強いして身に付けさせたところで、それがその人に本当に幸せをもたらすのだろうか。近年特にその存在が広く認知されつつある発達障害を持つ人にとっては、尚更だ。

ステレオタイプの努力が一部の人にとってしか適用されないような幻想になりつつあるのだから、必要な努力、不必要な努力も人によって違う。

 

多分、これからはもっと、どこに努力をすべきか、個々人が自分の適性に合わせてシビアに取捨選択しなければならない時代になると思う。

 

でも努力の取捨選択ってきっとすごく難しい。「自分はこれが強みだから更に強化するために努力しよう」「これは苦手だけどこの能力はまだ上げられるからもう少しだけ努力しよう」「これは苦手だしこれ以上の努力は無駄だからここまででやめよう」こんな風に、間違うことなく選んだり捨てたりできたら、皆が効率的に適性に合わせて能力を上げられるのだろうな。

でもそれはそれで、未来に起こることをネタバレしちゃってるくらいつまらないことなのかもしれない。