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私は誰の信者にもアンチにもなりたくない

有名ブロガーの取り巻き連中(信者)にディスられ、ワイ困惑 - 癒されたい味のりのブログ

この記事を面白く読んだが、ここで信者やら取り巻きやら言われている人は、おそらく全く自覚がないんだろうなと思った。

自分がブログを始めて色々な人のブログを読むようになって、この人の考え方は好きだなと好感を持つ人、この人の考え方は合わないなと苦手な人、結構自分の中で明確な色分けができるようになってきた。

そんな中で私がとりわけ気を付けてることがある。それは、好感を持っている人の意見だからと言って簡単には全肯定しないということだ。

Aさんのことが好きで、仲良くしたいと思っていても、ある事柄についてのAさんの意見が自分には納得がいかないものだったら、わざわざ否定はしないけど、内心とは裏腹なその場しのぎの肯定も絶対にしない。

もともと好意を持ってるAさんの意見なら「あのAさんの意見だから、そういう考えもありかもしれない」とはじめに多少の下駄を履かせることはあるかもしれないが、その意見をどう捉えるかの最終ジャッジは「Aさんだから」ではなく自分の判断基準だ。

あるいはそのジャッジがとても難しいものだったら、無理矢理にその場で白黒つけようとしない。どこか見えないところに仕舞い込み、しばらく寝かせてまたいつか考える。

しかしこの作業はとても面倒くさい。

「この人のいうことは正しい/信じる」「この人のいうことは正しくない/信じない」そうやって判断基準を自分の信念ではなく、発信者にしてしまうのはとても効率的だ。相手との人間関係も円滑にいくだろう。

でもそれを続けていって、自分が持っていた判断基準が、好きだけど自分じゃない他人の判断基準に染まっていくのが怖い。

新たな知見を得たら自分の判断基準を柔軟に変えていくことは全く厭わないが、それを他人に依存しすぎて、いつの間にか自分の判断基準が他人の判断基準と同一化していたらホラーだ。

世の中には他人の判断基準を乗っとるのがとても上手な人がたくさんいる。それが自覚的、無自覚的に関わらず。だからこそ「誰が」言っていたかではなく「何を」言っていたかをきちんと自分の頭で考えなくてはならない。すごく面倒臭い作業だけど。

「この人すごいな」「この人いつも私の言いたかったことを言ってくれるな」なんて特定の人の言葉に常に感銘を受けるようになったら、信者化の黄信号だ。

たとえいつも心の琴線に触れるような言葉をくれるような相手でも、そんな相手の言葉だからこそ「自分はこの人よりもっと上手いこと言えるかもしれない」「この人と自分の考え方の違うところを見つけてみよう」と、特に冷静に捉えなければならない。

 

ここまで偉そうに書いたのだが、これはもともと自分が好感の持ってる相手の意見へのスタンスで、こちらは我ながら出来ていると思う。

しかしこの理屈を通そうとすると、逆にもともと自分が好きじゃない相手の意見も同じように「誰が言っていたか」ではなく「何を言っていたか」で判断しなければならないのだが、これが自分はなかなか出来ていない。

一度自分が「この人の考え方嫌いだわ」と思ったら、その人の発言というだけでハナから「ケッ」と思いながら捉えてしまうところがある。

まあそれまでにその人の意見で散々嫌な気持ちになったから「嫌い」という認定をしているわけで、大抵が新たな意見を読んでも「やっぱりこいつ嫌いだわ」と思うだけなのだが、たまーに「嫌いな人なのに良いこと言ってる」ということも発生する。

そういう場合は逆に、人の好き嫌いは別にして、意見そのものを評価できるような心の広い人間になりたい。道のりは遠い。