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未来メモリー

未来の自分に誇るメモリー

元体育会系の私が、体育会系の役割は終わったと思う理由

独白


「この部活動は長すぎる!」 ブラック練習、変えさせた父親の執念 全権握る指導者、学校との闘いの記録 (withnews) - Yahoo!ニュース

このニュースを読んで考えたこと。

センスが無かったので全く伸びなかったが私はあるスポーツに真面目に愚直に取り組んでいた時期があり、基本的に体育会系的な考え方は好きだ。努力、根性、気合い。わかりやすくて良い。松岡修造は大好きだ。でもそれは私個人の趣味の話で、社会全体にとって体育会系的な考え方はもう全く時代にそぐわなくなったと思っている。

体育会系的な考え方が良しとされていた過去、そこには確かに根拠があった。

取り立てて強豪校でもない学校の部活の練習が昼夜休みのないような厳しいものでも、それに疑問を持つ人はあまりいなかった。それは、頑張ったら頑張った分だけ部活動で結果が得られるからでは、もちろんない。色々なものを犠牲にして頑張っても、部活動で勝利や栄誉を手にすることのできる者は一握りで、それは昔も今も変わらない。だが、かつては、厳しい部活動で培った体育会系的考え方や経験は、社会に出てから活かされる機会があった。

「苦しいときにも歯を食いしばって耐える」

「コツコツと毎日必死に自分を鍛える」

体育会系部活動でこういう経験を積んできた者は、たとえ部活動そのもので特別な何かを成し遂げることが出来なくても、そこで培った努力、根性、気合いを生かして粘り強くへこたれずに仕事をし、結果、社会的にも成功できるというストーリーがあった。

ところが今はどうだろう。

昨今では働き方に対する価値観が大きく変わった。努力、根性、気合い、それらを糧に仕事をしたところで見返りがあることはごく稀だ。懸命に愚直に仕事をするよりも、スマートに効率的に仕事をする方が評価を得られる。過度に献身的な仕事は自らの精神の疲弊につながり、下手をしたら会社にいいように使い捨てられる。

学生時代の体育会系的部活動そのものが後のライフプランに繋がるようなごく一部の才能ある選手を除き、大多数の普通の人間にとっては、体育会系的な考え方を学生時代に身に付けてもそれを活かせる場所はどこにもないのである。

このため、冒頭のニュースの父親の判断は極めて現実的で正しい。部活動の内容そのものがその後のライフプランに関わってくるような価値の高いものでないかぎり、普通の中学生がモーレツに部活動に取り組むことには何ら意味はない。

繰り返すが、私は努力、根性、気合い、個人的には好きなのである。アスリートなり研究者なり、何かを努力して成し遂げた人たちの裏話を聞くのは好きだし、もれなく感動する。しかし今はまさに働き方をはじめとする色々なものの価値観が変わろうとしている過渡期で、時代の変化によって既に行き先もなく何の価値を持たなくなってしまった努力、根性、気合いが世の中に蔓延している。だからこの勇気ある父親のように、これまで何となく盲目的に肯定されていた体育会系的考え方に、正面から疑問をぶつける人がもっと増えるだろうし、増えるべきだと思う。

(ちなみに自分のイメージだが、時代に適合しない体育会系根性論に未だに固執しているのが張本勲で、体育会系根性論を時代に合わせて上手にアレンジしているのが松岡修造だ。)