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未来メモリー

未来の自分に誇るメモリー

ミスコンがセクハラという論理は理解できない


変わる大学のミス・コンテスト…地域に貢献、性別不問も (読売新聞(ヨミウリオンライン)) - Yahoo!ニュース

この記事を読んで、過剰な表現規制論を見たときと似たような違和感を感じた。

ミス・コンテストがあるのにミスター・コンテストが無いのは不平等だから、やるなら同時開催するべきだろうという気はする。

そのあたりのことは以前も書いた。

 

女性バージョン作るなら男性バージョンも必ず作ればいい - 未来メモリー

 

でも冒頭の記事はそういう話に留まらなくて「容姿で人を評価するべきではない」という議論にまでなっている。

人間、主観の違いはあれど美しいものを見ると気持ちが上がる生き物だ。美しい男性、女性を見て「綺麗だな」と愛でるのはごく自然なことだと思う。

「容姿で人を評価するべきではない」というのは容姿が劣ることを理由に他人を不当に貶す場合に適用すべき言説であって、容姿の優れた人を称えるのを禁止するまでに拡大するのは、人間の自然な感性の動きに逆らうことだと思う。

 

テレビをつけると容姿に恵まれた有名人が活躍していて、私たちは「可愛い」「カッコイイ」と楽しむ。

容姿を生かして一般人に夢を与える彼らは、生まれもったものを有効利用しているだけだろう。

それは、天性の歌声を持つ歌手が美声で人を楽しませること、あるいは天性の身体能力を持つスポーツ選手がオリンピックで健闘することと、本質的には大差がない。

 

もしミスコンが、学内全員参加が強制で一位から最下位まで全部順位つけて強制するよなんて企画だったら、それははた迷惑だし気持ち悪い。

でも現状、自由参加で、学内でも有名な美男美女の数名をピックアップして、とりわけ美しい人を表彰しましょうという企画だ。何の問題があるのか理解できない。

 

優れたものを称えることは、健全なことだ。それは、劣ったものを貶めることとの表裏の関係ではない。人間は優れたものを称え、劣ったものを貶さないということもできるはずだ。

 

ミスコン撲滅みたいな動きがどんどん活発になると、コンプレックスを持つ人に「配慮」、参加できない人に「配慮」、配慮せよという大義名分のもとに出る杭は打たれ、相互に監視し合い、優れた者は引きずりおろしてでも皆が横並びになろうという息苦しい社会に結び付く気がしてならない。

いや、ミスコン関係なくもしかしたら日本は既にちょっとそういう社会になっているかもしれない。